エベレストトレッキングで死亡したおじさんについて書く。

おじさんの死を悼む為だけに記録を載せる。

記憶に残っている会話を全て記載しよう。





ネパール・首都カトマンズ


タメル地区の宿に泊まっている私は、宿の皆と夜ご飯を食べに行こうと一階に降り、入口を出ようとした。


その時、日本人の曽根さん(仮称)という60代のおじさんと、30代の若い人が入ってきた。


曽根さんとは、昨日の夜にこの宿に到着したおじさんで、実は私達はエベレスト・トレッキング中にナムチェという標高3400メートルの村で1度会っているのだ。曽根さんはその時にもう一人の玉川さん(仮称)というおじさん(67歳)と一緒で、私は玉川さんと知り合いだった。


というのも、トレッキング出発前にカトマンズの日本人宿に宿泊していた時に、玉川さんも泊まっていたからだ。そこで知り合ったのだ。


~話を少しさかのぼる~


10月31日

首都カトマンズの宿では、朝の7時から屋上のテラスで無料の朝食が出る。
そこで朝食をとりながら皆と話していると、玉川さんがいらした。


私は「おはようございます」と他の旅行者同様に挨拶をした。
挨拶をしたからか、玉川さんは私と同じテーブルに座った。丁度私の前だ。恐らく若い宿泊者たちとコミュニケーションを取りたかったのだろうと思った。



話を聞くと、玉川さんはどうやら昨日カトマンズに着いたようで、シングル部屋に泊まっているとのこと。しかし、ドミトリー部屋の方が安いし本当はドミトリー部屋に泊まりたいと言っていた。


私は感心した。67歳という年齢にありながらドミトリー部屋に泊まりたいという若々しい発言、若者たちと一緒でも何も気にとめないところに精神的な若さを感じた。


さて、玉川さんは、聞くとどうやらエベレスト・トレッキングをするためにネパールに来たらしい。


珍しいことではないので、それ自体は驚かなかった。この宿では60代やら70代のトレッキング好きのお爺さんに何人も会っていたので、玉川さんもそれと変わらない。


玉川さんは、聞くと、山好きで日本でも結構トレッキングをしているとのこと。なるほど、運動好きなおじさんだ。感心した。


私の親父は62歳で定年退職したが、毎日テレビの前に座っているだけなので、こういう活発な年輩者にはただただ感心するばかりだ。


私が凄い活発ですね。というような事を言ったら玉川さんは、家にいてもやることないから。息子夫婦にうるさがられるだけだから、外に出ていくのが一番良いんだよ。とニコニコしながら話してくれた。純粋に体を動かすのが好きなんだろうなと思った。



玉川さんには、息子さんがいらっしゃるらしく、その息子さんが昔バックパッカーをしていたとのこと。その息子さんからネパールのエベレストの事を聞いてずって来てみたかったらしいのだ。私は話を聞き、玉川さんの見た目から想像して息子さんは40代位の人なのかなとこの時は思った。


とりあえず息子さんが心配するから、到着した旨を伝えないといけないらしく、後でインターネットカフェを探して「着いたよー」ってメールで報告しないといけないと言っていた。


私は自分のタブレット端末やらのインターネットメールを貸そうとも考えたが、IDやらパスワードやら色々と私の端末に入れる事になるため、逆に失礼にあたるかなと思い、申し入れるのをやめておいた。


初日はそんな感じだった。



翌朝も朝食を食べていると、玉川さんは私のいるテーブルに座った。
玉川さんは私のトレッキングのルート等を細かく聞いてきた。
どうやって行くのか。ポーターやガイドはつけた方が良いか等々。

私は飛行機は使わずにサレリという村までジープで行って、そこから歩き始め、ベースキャンプやカラパタール、ゴーキョにも行く旨を伝えた。


玉川さんはそれを聞いて、そんなルートがあるんですか!と頷きながら楽しそうに聞いていた。玉川さんも本当は同じように行きたいらしいが、年齢を考えると飛行機でルクラまで行くだろうと言っていた。


ただ、ベースキャンプもカラパタールも両方行きたいとの事を言っていて、私はまた感心した。

しかも玉川さんもガイドもポーターも着けないらしい事を言っていた。



数日後に玉川さんとまた会った。恐らく私の出発日の前日だったと思う。


私は翌日の朝に出発する旨と、カトマンズの汚い空気で喉がやられてしまった旨を話した。


すると、玉川さんは後で日本から持ってきた塩飴をくれると言って、午後にわざわざ屋上まで登って来てくれて、手いっぱいの黒い包装の塩雨を分けてくれた。

トレッキング中は塩分が不足するからこれが一番良いと言っていた。日本でもいつもこれだと。


私は有り難く頂き、実際にトレッキング中にも役立つ事となった。


私は明日出発するが、サレリから歩き始める。玉川さんは数日後に飛行機でルクラまで行くからもしかしたら向こうで会うかもしれませんね。等といった会話をした気がする。



しかし、本当に会うとは。



11月10日
標高3400m ナムチェバザール


この時の記事にも書いたが、ナムチェで玉川さんに偶然再会した。


私はナムチェに着いて2日目に、宿を移動するため村のなかをウロウロと歩いていた。



すると、見たことのある人がいた。
玉川さんだ。私の方が4日早く出発していたが、玉川さんはルクラまで飛行機を使ってきたので、どうやらタイミング的に偶然一緒になったようだ。


玉川さんは、もう一人、同じくらいの年齢の人を連れていた。それが曽根さんだ。


どうやら私がカトマンズを出発したあとに、宿で曽根さんと出会い、意気投合して曽根さんと一緒にここまで登って来たらしい。


私は安心した。
同じ歳くらいの仲間を見つけて登っており、一人よりも楽しいだろうと思ったからだ。


しかし、曽根さんはもう体力的にも日程的にもキツイので、恐らくここナムチェ村を最後に下山をするらしく、明日からは、玉川さんはまた一人になるみたいだ。



このあとは2人は、高地順応のため、標高3800メートルのクムジュン村に登っていった。



私は玉川さんと曽根さんが2人で500ルピーで泊まっているという宿に行き、そこに泊まろうかと思ったが、宿の人に話を聞くと、ツインベッドなので一人だと500ルピーになってしまうというので、諦めて他の宿にした。



11月12日

この日も再会した。
私は前々日から、からユウキ君(仮称)という若者とナムチェで出会い一緒に登っていた。



ディボチェという村に泊まり、翌日にディンボチェに向かって歩いているときに玉川さんに再会したのだ。
もう曽根さんの姿はなかったので、曽根さんは下山したのだろう。


この時からユウキ君も玉川さんと知り合いになった。
玉川さんは、小さなリュックを背負いどこかで拾ったであろう自然の木を杖がわりにして一歩一歩ゆっくり進んでいた。杖が様になるなぁと感心したほど、とても格好良く似合っていたのを覚えている。


おじさんは、「山はやっぱり朝だな、朝の山はいいな。こんな綺麗な山を見て登れるなんて幸せだ」みたいな事を言っていた。


そこで、私は少しハッとなった。


なぜなら、自分が歩くのに集中し過ぎており、景色を堪能するのを忘れていたからだ。


歩くときは目線は下になるため、疲れてくるとあまり景色を見てもいなかったし、慣れてきて気にも留めなくなっていたのを思いだしたかだ。



しかし、玉川さんは歩きながらちゃんと山を堪能し景色の素晴しさを満喫していた。



それを思い出させてくれただけで感謝だ。



私とユウキ君は、宿で会うかもしれませんねと言って、玉川さんを追い越した。


宿では会わなかったが、その翌日にまた再会した。

11月13日
標高4600m  ディンボチェ村 滞在2日目。


私とユウキ君は高地順応のため、この日は近くの標高5200メートル程の山に登って降りていた。



そうしたら、ゆっくりと上ってくる玉川さんにお会いした。

杖をつきながらゆっくり登っていた。玉川さんも高地順応の為に登っているのだ。


かなりキツそうだったので、少し心配になった。


高度計を見ながら、5000メートルまでは登りたい、5000メートルまで登ったらOKだと言っていた。




11月14日

ユウキ君とロブチェ村に向かって平坦な道を歩いていた。ロブチェ村とはエベレストトレッキング最終地点である標高5200メートルのゴラクシェプ村の一つ手前の村だ。



トレッキング中に珍しく平坦な道がずっと続いていた。


広大な土地を歩いていると、前に玉川さんを発見。


追い越し際に私達はまた会話をした。


玉川さんは、この◯◯は凄いなー、幸せだよと、何か山の専門用語のようなもの使って地形を呼んでいた。何て言ったかは覚えていないが、とにかく感動しており、幸せそうにしていた。


玉川さんは、かなり積極的に色々な人に話かけるらしく、会話の中で「さっき歩いていたら女の子一人で歩いてるから、どこから来たの?って聞いたらポーランドだって言うから、大したもんだなーって思ったよ!」と感心していた。こういう話が会話の中で何度か出てきたので、割と積極的に色んな人に話しかける好奇心旺盛な人なのだろうと感心した。


私達は玉川さんを追い越しまた歩いた。


お昼に途中にあったロッジで休憩していると、20分ほど遅れて玉川さんがやってきた。


私とユウキ君が玉川さんを見たのは、ここが最後となった。


ここには下山中の50代くらいの夫婦もいたため、5人で少し話をした。


横浜から来ているという夫婦は、カラパタールが寒すぎて登りきれずに断念したと言っていた。その奥さんの方が、一緒に写真を撮りましょうと言って、デジカメでみんなで写真を撮った。



恐らく玉川さんが写っている写真はこれだけだろう。多分玉川さんは写真は撮っていないと思う。撮っていても自分が写っている写真など撮っていないだろう。だからこれが玉川さんが写っている唯一のエベレストトレッキングでの写真であるはずなのだ。



この写真を玉川さんの遺族に渡してあげたいが、残念ながらこの夫婦とは連絡先などは交換していないため、連絡はつけられない。それが残念だ。


玉川さんはここでダルバートか何かの昼食をオーダーしており、昼ごはんを食べてから出発するらしく、私達は先に行った。



その後、私とユウキ君はロブチェ村、翌日にゴラクシェプ村と行ったが、玉川さんに会うことは無かった。同じロッジでないとなかなか会う機会はないので、別のロッジにいるのだろう。


そして、玉川さんの情報は、数日後に得ることができた。


11月22日

飛行機でルクラからカトマンズまで帰るユウキ君と別れ、私は来たときの様にサレリ村を目指して歩いていると、カリコラという村の辺りで日本人の65歳のおじさんと出会った。

その日、私達は標高1600メートルのジュビンという村のロッジに泊まった。


そのおじさんと、夜ご飯を食べながら会話をしていると興味深い話が出てきた。


「ゴラクシェプの宿で僕より年輩の一人で登っているというおじさんに会ったんだよ。聞くと67歳だと言っていたね。大したもんだよ。」


そんな事を言っていたと思う。
日付や風貌を聞くと、完全に玉川さんの事だった!


私は嬉しかった。あれから玉川さんを見かけなかったので少し心配していたのだ。



標高5200メートルのゴラクシェプ村で会ったという事は、一番最後まで行ったという事だ。
流石だ!私は安心した。



11月25日 首都カトマンズ


エベレストトレッキングから下山して2日目。ゲストハウスのドミトリー部屋で夜に皆で話していると、夜中の12時くらいに一人のおじさんがドミトリー部屋にきた。


見たことあるなぁと思ったら、ナムチェ村で玉川さんと一緒だった曽根さんという60代のおじさんだった。



向こうは私の顔は覚えていなかったが、私が話しかけて、ナムチェでお会いした旨を告げると向こうも思い出してくれた。


曽根さんは、国立公園にサファリに観光に行ったが、バスが止まってしまい、やむ終えず1万円も払いタクシーを飛ばしてここカトマンズまで戻り、今着いたようだ。



玉川さんの事も聞いたが、ナムチェで別れたきり知らないと言っていた。



もう下山して何日も経っているはずなのに、玉川さんの姿は宿には見えなかったから、ユウキ君と2人で心配していたのだ。

他の宿には泊まるとは思えないんだよな。と思った。


山の話などを3人でしたかったが、玉川さんの姿は、このあとも宿で見ることはなかった。


11月26日
わたしとユウキ君が夜の食事に行こうとした際に、曽根さんが若い人を連れて複雑な顔で入ってきた。


私を見つけ、曽根さんが「あーいた、いた。」と言った。


この人は玉川さんの息子さんです。と私に紹介した。




え。




その瞬間、私は玉川さんが亡くなった旨を悟った。



案の定、息子さんは、玉川さんが亡くなった事を私に告げた。


息子さんは、この宿に来て、トレッキングでナムチェまで一緒に行った曽根さんの事を宿の人か誰かに聞いたのだろう。それで曽根さんに話を聞いていたようだ。偶然にも、宿に曽根さんがいた事も何か奇跡的な感じはした。

そんな曽根さんが、「この人の方が詳しいと思いますよ」みたいな事を息子さんに伝え、私を探していたようだ。



私はすぐにユウキ君に、玉川さんの息子さんがいらした旨と亡くなった旨を伝えた。






ユウキ君も絶句していた。





一緒に登り、毎日のように会話をしていた人の死は、私たちには信じられなかった。



息子さんが言うには、玉川さんはゴラクシェプ村まで行き、ロッジのベッドの上で朝に亡くなっているのを確認されたようだ。高山病とのこと。



それで、息子さんが遺体を引き取りに日本からやってきたのだとか。


ここにいる中では、最後に玉川さんと接した日本人としては私とユウキ君になるので、山での玉川さんの様子や会話をできる限り伝えた。


幸せそうだった。楽しそうだった。という旨を中心に伝えた。



因みに、私とユウキ君はこのときまで、玉川さんの事をお爺さんと呼んでいた。

髪も白髪で髭も白く、15センチ程生やして仙人のやうな風貌で、おじさんというよりは、お爺さんだったからだ。



しかし、40代だと勝手に思っていた息子さんは、実際にはかなり若く、見た目は我々と同年代で、年齢は我々より少し上の30代半ば位に見えた。



そのため、息子さんの前でお爺さんと呼ぶには、息子さんが若すぎると判断し、「おじさんと」と息子さんの前では呼ぶことにした。


息子さんはバックパッカー時代に泊まっていたという、当時流行っていた富士ゲストハウスに泊まっており、2日後に日本に帰国するとのこと。

何か追加で分かったことがあったら教えてくださいと、連絡先をもらい、別れた。




その後にユウキ君と夜ご飯を食べに行ったが、会話はやはりその事だった。



死ぬ前に一度来たかったと言ったエベレストトレッキングに来れて、ちゃんと最後まで行けた。亡くなりはしたが、幸せだったのではないかという事を話した。



今でも心残りは、あの時に横浜から来たというご夫婦お皆で撮った玉川さんが写っている唯一の写真を息子さんに渡してあげたいが、ご夫婦の連絡先を聞いていなかったので、それができない。それだけだ残念だ。
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